雑記帳

私、渋谷次郎が調べたことや考えたことを書き留めておくためのブログです。

高1に向かって、古文の授業は、英語圏でいうラテン語や聖書の授業と説いてみた

梅雨の中休みの良く晴れた日のこと、この春に無事高校に進学したA君がやってきた。
英語は抜群に出来るのだがやはり日本語がネックとなって受験では苦戦していた彼。
「学校は楽しいかい?」
「すげえ楽しいよ」
その笑顔にホッとする。
第一志望校を逃したり、入学できそうだった私立校を経済的な理由から諦めるなど、必ずしも納得しやすい進学先ではないはずだ。それでもこの時期に澄んだ笑顔を見せられるのはいい。

「いちばん嫌なことは、何だい?」
「古文の授業だよね。あれはひどい。」
あたりまえのことだが、日本語の力は入学後の授業でも大きなハンディ。彼の力なら乗り越えてくれるに違いないけど、さすがに古文や漢文となると閉口してしまうのだろう。『そんなもの、気にするな』で片づけても良かったのだが、真面目な彼だからもう少しけし掛けてみたくなった。

「古文の授業って、日本語にとってのラテン語や聖書みたいなものじゃないかな」
「え〜。竹取物語がバイブルと同じなんて思えない!?」

すでにミドルエイジになったというのに、貧相な自分の英語力を考えると、ラテン語や聖書や神話についてもっと知っておいた方がいいなって感じているという話をした。アニメやゲームのテーマにかなり古文で習うような題材が(かなり脚色はされているけど)使われていることも話し、友達にそんな古典モノの漫画でも紹介してもらったらどうかとも勧めてみた。
先日、震災や原発事故のとき、英字紙は人々が避難することを ”Exodus” って言葉を使って表現していたが、英語圏の人たち、あるいはキリスト教圏なのかもしれないけど、彼らはきっと「出エジプト記」なんかの各シーンと重ねることをしているだろう。おそらく、日本語の「避難」とはちょっと違った印象になるはずだ。
そういうことが実はいろいろなところであるんじゃないかと思う。

日本人は「無常」とか「無常感」という言葉を使えば、必ず平家物語を思い浮かべるだろう。思い浮かべない人もいるかもしれないけど、そうすることを求める見えない力の中で日本語は用いられている。

さすがA君、こうしたオジサンの話を嫌がらずに聞いて帰ったが…。何か効果はあったのかな?